アナログからデジタルへ、そして中心はPCM音源へ。1986年発売の100万台以上の大ヒット商品サンプリングキーボードSK-1開発の裏側

CASIOが昨年2020年に40周年を迎えたを記念して連載してきた、過去を振り返るという連載も早いことで第5回目となりました。第1弾の「デジタルシンセの夜明け、1980年発売の『カシオトーン201』に搭載された画期的アイディア、子音・母音音源システム」からはじまり、デジタル音源はどう確立されていったのか、懐かしく感じている方や反対に新鮮に感じている方など、CASIOが歩んできた道のりを楽しんでいただけたと思います。

そして、今回は1986年発売の100万台以上の大ヒット商品サンプリングキーボードSK-1、1988年発売のフルPCM音源となった電子キーボードCT-640などをピックアップしてみます。80年代前半、数百万円~1000万円という価格だったサンプラーに多くの人が憧れを抱くなか、16,000円というトンでもない低価格で登場したSK-1には多くの人が驚き、飛びついたのではないでしょうか?私もその一人でしたが、そのSK-1など当初のPCM音源について、前回に続き、長年シンセサイザー開発に携わってきたカシオ計算機株式会社 開発本部 開発推進統轄部 プロデュース部 プロデューサーの岩瀬広さん、楽器BU 第二商品企画室 池田晃さんにお話しを伺ったので紹介していきましょう。

1986年発売の100万台以上の大ヒット商品サンプリングキーボードSK-1

--現在では主流となったPCM音源ですが、80年代前半はEmulartorやFairlight CMIなど海外の超高級なサンプラーがあった程度でしたよね。そこに大きな可能性や憧れを持って見ていた覚えがあります。
岩瀬:カシオ計算機が電子楽器に参入したのは1980年ですが、オーディオ業界ではすでに、1970年代からPCMを応用したデジタルオーディオの研究開発がはじまり、DATやMD、CDなどのデジタル・オーディオ機器に結実していました。当時は旧来からのアナログオーディオとデジタルオーディオの音質論争も加熱し、都市伝説のような音質論争も含めて、アナログ対デジタルで市場は盛り上がっていました。電子楽器の世界でも、高価なミュージックワークステーションにPCM技術が搭載されはじめ、オーディオサンプリング機能、もしくはデジタルオーディオ録音機能が実現されはじめていました。

池田晃さん(左)と岩瀬広さん(右)にお話しを伺った

--確かに楽器よりオーディオのほうがPCMにおいては進んでいたわけですね。改めてPCMとは、どんな技術といえますか?
岩瀬:PCMとは、アナログ音声波形をデジタルデータに変換する技術で、電子キーボードやシンセサイザーへも応用可能な技術であることはわかっていました。そのための研究も水面下で行われていました。以前お話しさせていただいた、コスモ シンセサイザ システムにもオーディオサンプリング可能なモジュールが搭載されていました。PCM音源方式では、サンプリングされた楽器の波形をデジタルデータとしてメモリに蓄えておかなければいけないですが、これもすでにお話させていただいている通り、1980年代前半は、デジタルオーディオデータを保存する半導体メモリが高価だったため、一般コンシューマに提供できる技術にはなっていませんでした。またデジタルオーディオ機器は、可能な限り原音忠実再生を目指し、さらにデータ量を少なくするためのデータ圧縮技術の研究が行われ、記録メディア保存やデータ通信時のデータ欠落に対する堅牢性の研究などが行われていました。楽器の世界では録音された音の音程を変化させたり、持続音の繰り返し波形をループ再生させるといった、一般的なデジタル・オーディオ機器では不要な特殊な技術開発も必要でした。

岩瀬広さん

--ちょうどパソコンも、黎明期の8bitマイコンから、日本ではPC-9801を中心とする16bitマシンへと進化して、普及も加速していった時代ですから、楽器の世界も変わっていったわけですよね。
岩瀬:1980年代後半になると、そのパソコン需要などとともにデジタル機器のマーケットが急拡大していきました。その結果、メモリの大容量化、低価格化が急速に進み、PCM音源は電子楽器への搭載も可能な技術となってきました。カシオ計算機では、1985年には、それまではデジタルとアナログのハイブリッド回路で発音させていたドラムやシンバルの音のPCM音源化を電子キーボードMT-500で実現したのが最初です。

サンプリングキーボードSK-1

--SK-1が最初ではなかったんですね。当時はPCM音源というより、サンプラーに憧れを持っていたので、内蔵マイクで音をサンプリングして音源にできるSK-1は最高のオモチャ楽器という感じでよかったですね。
岩瀬:SK-1は1986年に発売したわけですが、その時点ではメモリなどの部品コストが下がり、十分実現可能なものになっていました。まだ他社が低価格帯で出していなかったこともあり、想像以上の大ヒットとなりました。このサンプリングした音は4音同時に発音でき、サンプリングした音やプリセットの音色のアタックやディケイの仕方などエンベロープも少し変えられるシンセサイザにしていたのもヒットの要因だったのかもしれません。ちなみにプリセットは8音色搭載していました。また、単3電池x5でも動作し、AC100Vやカーバッテリーでも動作する汎用性を持たせつつ、1.2kgという軽量のキーボードであったことも多くの方に受け入れられたようです。

SK-1にはサンプリング用のマイクが内蔵されていた

--個人的にはもっと、サンプリングができる音源があったら…と思っていましたが、その後はサンプリングされた音源を装備したPCM音源中心にキーボードへと変わっていたんですよね。
岩瀬:そうですね。SK-1に続き1988年には、フルPCM音源となった電子キーボードCT-640を発売し、これも大きなヒットとなりました。やはり従来の電子楽器と異なり、PCMによって非常にリアルな音、アコースティック楽器そのものともいえる音が出るということで、広く受け入れられ、あっというまに電子キーボードや電子ピアノの音源はPCM音源中心となっていったのです。

--やはり。メモリの大容量化と低価格化はカギになっていたのですね。
池田:PCM音源は、メモリ容量さえ確保できれば音色数を増やすことが容易に可能です。そのため、PCM音源の普及に伴い、電子キーボードではメーカー間の音色数競争が激化していきました。また、これまでのデジタル波形合成方式では再現性が乏しかったピアノやドラム音色のリアリティが飛躍的に向上し、リアリティが増したピアノ音色を強みとする電子ピアノ製品による市場拡大の流れが加速しました。続いて電子ピアノでも、リアリティが増したピアノ音色を強みとする商品により市場拡大の流れが加速しました。カシオも1988年にPCM音源とカシオ初のハンマーアクション機構を搭載したCDP-3000、1991年にAP(Advanced Piano)音源を搭載し現在も続くCelvianoシリーズの1号機であるAP-7を発売し、電子ピアノ市場に本格参入いたしました。

CDP-3000
CELVIANO AP-7

--たしかに、その時期は多くの電子ピアノが市場を賑わせていましたね。
池田:その後、メモリーの大容量化、低価格化が進んだことから、、手軽な価格帯で人気となった電子ピアノPrivia PX-100から現在のPX-S1100、Casiotoneのような普及価格帯に至るまで、高音質、高品質な商品が市場に大きく広がっていきました。

Privia PX-100

--ここまで聴くとPCM音源は万能のように思えますが、弱点はなかったのですか?
池田:いえ、PCM音源が一般化すると同時に、その弱点が問題視されるようになってきていました。PCM音源は波形メモリに格納された通りの音を再生することは得意である一方、演奏表現(アーティキュレーション)による音色変化の再現が不得意です。そこで、ベース技術はPCM音源とした上で、新たな技術を加えることで音源を進化させてきました。たとえばグランドピアノでは88個の鍵盤があり、1鍵盤あたり1~3本の弦が張られており、弦の総数は約230本にもなります。すべての弦が同一フレーム内に収められているので、発音時の弦の振動は相互に干渉しあい、鍵盤操作やペダル操作によって複雑に変化します。そのため、単に弦の振動波形を再現するだけでは決して聞き慣れたピアノの音を再現することはできません。グランドピアノのボディとフレーム、約230本の弦の相互の共鳴が重なりあってはじめて、ピアノらしい音が生まれます。また鍵盤を叩く速度や和音の重なり方、ダンパーペダル操作といった演奏操作により、同じ音程の音であっても共鳴が変化し、音色は複雑に変化するのです。これは単なるPCM音源では到底表現しきれない要素でありました。

池田晃さん

--弱点はありつつも、それを補う技術が作られていったというわけですか?
池田:現在カシオの最高峰電子ピアノラインアップであるGP-510では、AiR Grand(Acoustic & Intelligent Resonator)音源というものを搭載しています。これは、C.ベヒシュタインとの協業により最高峰マイスター・ピース「D282」を分析し尽くした音源です。マルチディメンショナル・モーフィング技術を採用し、打鍵の強弱や時間の経過による変化を三次元的にきめ細かにコントロールすることが可能となっています。また、約230本の弦に相当する専用共鳴回路からなる弦共鳴システムを持ち、演奏状況に応じたレゾナンスの量や組み合わせを制御し、本物のグランドピアノの弦共鳴を徹底的に追求しています。

GP-510BP

--本物のグランドピアノをPCM音源で鳴らすものを開発されたのですね。
池田:PCM音源に独自の技術を加えた電子楽器の進化は、アプローチは各社各様で、グランドピアノらしさの追求に各社しのぎを削っている状況です。なお、演奏表現(アーティキュレーション)によりさまざまな音色変化をする楽器は、、決してピアノに限った話ではなく、全ての自然楽器が有する特徴です。その中で最も複雑な音色変化をするものが、人の歌声、ボーカルです。歌詞となる言葉の選び方や、ある単語から次の単語への変化など、PCM音源ベースでは、最も表現が難しい”楽器”だといえます。しかし、ボーカルは、音楽の歴史上で最も重要な”楽器”であり、特にポピュラー音楽では必要不可欠な音素材となっています。PCM音源周辺技術は現在も日々飛躍的に進化し続けているものの、このようなPCM音源のおかれた状況を鑑み、カシオではまったく新しい音源の開発に着手し始めました。

【関連情報】
カシオ電子楽器40周年サイト

モバイルバージョンを終了