田中貴金属といえば、貴金属の製造・販売・リサイクルで知られる日本を代表するメーカーです。さて、その田中貴金属グループのTANAKA未来研究所が2023年8月から音楽制作プロジェクトに乗り出し、純金(Au)・純銀(Ag)・プラチナ(Pt)・パラジウム(Pd)など計8種類の貴金属プレートをグロッケン(鍵盤打楽器)状に加工してマレットで叩き、そのサンプリング音源だけで構成したリラクセーション・アルバム『プレシャスメタル・オーケストラ ~貴金属の音紀行 Vol.1』を2025年6月にリリースしていたのをご存知でしょうか。
音楽制作を担ったのは株式会社デラのサウンド研究室「サウンド・ウェルネス ラボ」、制作プロデューサーは池田邦人さん、編曲はリラクセーション・ミュージック作曲家のMitsuhiroさん。完成した楽曲はANA・JALの国際線機内オーディオに採用されました。そのほかラジオや施設でもオンエアされ、結婚式場からの問い合わせも来ているといいます。今回、TANAKA未来研究所でプロジェクトを率いた主席研究員の伊東正浩さん・石橋毅之さん、そして富岡工場から参加したマネージャーで、今回のプロジェクトのキーマンでもある白倉一成さんの3人を訪ね、その舞台裏を詳しく聞いてきました。
TANAKA未来研究所とは何か
田中貴金属は、創業200周年となる2085年を見据えて、事業全体の変革に取り組んでいます。その一環として設立されたのが、TANAKA未来研究所(以下、未来研究所)です。約3年半前のスタートで、まだ若い組織ですが、すでに社内で売上を出すに至っています。伊東さんはこう説明します。
「弊社は2085年に創業200年を迎えます。その創業200年に向けて、いろいろな社内での事業変革を行っているところでございます。その中で2085年を目指す研究部隊のようなものが必要ということで、我々が招集されました」
未来研究所を立ち上げるにあたり、まず伊東さんと石橋さんの2人が考えたのは「会社のコアを外さずに、2085年の世界での田中貴金属とは何か」という問いでした。そこで出てきたキーワードが「貴少価値」です。
「今現在、貴金属には『希少価値』があるのですが、2085年を見据えたときに田中金属が求めてゆくべきものは何だろうか。それは、貴重にして希少なもの、すなわち『貴少価値』ではないかという考えに至りました。貴金属というのも当然今は貴少価値があるものになるんですけども、将来的に2085年までスパンを伸ばしてもちゃんとコアになるであろう言葉というと、貴少価値という言葉でくくっていった方がいいかな、という風になってきます」(伊東さん)
こうして「貴くて少ない」ものを探し、貴少価値を創出し続けていくことが未来研究所のミッションとなりました。研究の領域は6つ——フレグランス(香り)、音、農業、微生物、ナノ構造、センシング——に整理され、それぞれのプロジェクトメンバーを社内公募する形でスタートしています。
「貴金属の音を録る」という発想の誕生
音のプロジェクトを発案したのは石橋さんです。きっかけは「データビジネス」に対する長年の問題意識でした。
「技術開発部門にいて、 いわゆる材料開発で得たデータをMaterials Informaticsに入れて材料開発したりというのをずっと見てきたのですが、なかなか先に進めないものだなあと思っていました。 データの扱い方について、難しいところから始めるので結果が得られないのかもしれないとか、モヤモヤがありました」(石橋さん)
貴金属は、社外に出ると資産性の高い材料として扱われるのに、社内では「工業材料の一つ」として扱われる——その見えない壁を突破するヒントとして、石橋さんが目をつけたのが「音」でした。
「未来研として、60年以上先まで残る貴少価値を考えた場合、人の五感のうちの聴覚の世界があるのではないかと思いました。24金は、楽器として加工すると柔らかくて変形しやすくなってしまうのですが、その塊であれば変形しにくいし、それを叩いたときの音をデータとして世の中に出すことは可能なのではないかと、漠然とイメージしていました」(石橋さん)
さらに、富岡工場でフルートの管材を製造・出荷してきたという社内の下地もありました。田中貴金属には「音に関するものづくり」の実績がすでにあった。それを「ものの価値」で終わらせるのではなく、「音のデータ」として新たな価値に転換できないか——それが石橋さんの着想の核心です。
「貴金属が貴少でなくなる世界というものを考えていかなくてはならない。であれば、鉄琴ならぬ金琴を作り、その音を録ったらどうか。このようなことは田中貴金属しかできないでしょう。そのような貴金属の音なら貴少価値があるのではないか……と石橋が言い始めたのがこのプロジェクトのスタートでした」(伊東さん)
白倉さんの参加——富岡工場から手を挙げた理由
まず伊東さんと石橋さんはプロジェクトメンバーを社内公募しました。掲示板に貼られた募集用紙を見た白倉さんが応募したのは、富岡工場でフルートの管材製造に長年携わってきた経験があったからです。
「お客様のところにお伺いしたときに、新しい音を作ってほしいと言われることがありました。しかし、田中貴金属は貴金属を使った楽器の素材は提供できますが、音そのものを提供することはできません。このプロジェクトに参加して貴金属の音を録って音源とすることができれば、お客様にこのような音がありますとご紹介できるのではないかと思い、応募しました」(白倉さん)
応募の際には、「音を録る→音源化→お客様への提案」という一連の計画を面接でプレゼンしたといいます。石橋さんはそのときの印象をこう振り返ります。
「いきなり狙い通りに、ど真ん中の工場ルートが来てくれたので、一択でした。富岡工場まで行って開いた説明会には来なかったのに(笑)。応募書類が届いて初めて白倉さんという存在を知りました。ど真ん中が来た」
夜な夜な工場で——試行錯誤の始まり
プロジェクトが動き出すと、白倉さんはまず「音が出るかどうか」の確認から始めました。自費で子供用の鉄琴を購入し、分解。切り落とした切れ端を伸ばして板に加工するという地道な作業を行い、仕事終わりに薄暗い富岡工場の一角でひとり叩き続けました。
「一個一個叩くとやはり音程が外れていくのです。並び的にはなんとなくドレミくらいは続くときがあるのですが、だんだんずれていくような感じでした」(白倉さん)
ピッチが揃わない、うまく響かない——課題は山積みでした。それでも「音は出る」という手応えをつかんだことで、プロジェクトは次のフェーズへ進みます。そのタイミングで、デラの制作プロデューサー・池田邦人さんがこのプロジェクトに興味を持ち、合流することになりました。
池田さんとの出会いと、衝撃の”ペチン”
池田さんが加わり、富岡工場の静かな会議室でいよいよ本格的なレコーディング・セッションが行われました。白倉さんが加工した板を持ち込み、池田さんがマレットで叩いて音を収録していきます。そして最初の難関が現れます——純金(24金)です。
「さぞかし、いい音がするのだろうと期待していたのですが、実際には大変でした。『ペチン』という音で、全員が『え?』という感じで…。『どうしよう、このプロジェクト』と、とても不安に思ったのを覚えています」(伊東さん)
純金(24金)は柔らかすぎて、マレットで叩いても跳ね返りがなく、音が響きません。後ほど登場する池田さんのコラムにも「”ちょん……”という、なんとも頼りない音でした」と振り返っています。それほど「純金」というイメージとのギャップは大きかったといいます。
そこで池田さんが提案したのが「プレートのサイズアップ」でした。体積が小さすぎるから音が出ない——それならグロッケン本体に組み込めるサイズまで大きくしよう、ということです。白倉さんが、大きいもの・小さいものを試行錯誤しながら最終的に6種類のサイズの純金プレートを完成させました。とはいえ、純金をふんだんに使っているので、家が建つほど高価なもの。工場の管理部門からは「早く溶かして元に戻してくれ」というプレッシャーがかかり続けたといいますが、音の収録が完全に終わるまでの間、手元に置き続けることになります。
「低音を出すには、当然大きくしなくてはなりません。そして、大きくすればするほど金特有の落ち着いた響きが出てきます。もう少し大きく、もう少し大きくと言っているうちに、最終的にこの大きさのものを作ろうという決意をしました」(伊東さん)
サイズアップによって純金の音は一変。低音が豊かに鳴り響くようになり、「お腹に響く」ような壮大な音色が現れました。
8種類の貴金属、それぞれの音の個性
今回サンプリングした素材は計8種類です。純金属4種——純金・純銀・純プラチナ・純パラジウム、合金4種——銀銅合金(シルバーカッパー)・銀パラジウム合金・ピンクゴールド・イエローゴールド。それぞれの貴金属の音の個性について、石橋さんはこう振り返ります。
「パラジウムが一番イメージに近かったです。叩いたときの響きが”ピーン”という感じで、澄んだいい音だなと。金になってくると柔らかくなってくるので、低音が特徴的で、宗教音楽、賛美歌とか、そういう世界にとてもマッチする音だと池田さんも言ってくださり、とても納得しました。金にほかの金属を混ぜた合金では、かわいらしい感じになり、ピンクゴールドなんかはもう見た目の色通りの音だなという印象でした」(石橋さん)
また、銅を混ぜると倍音が増えるという傾向があることも分かってきました。
「24金——つまり混ざり物がない金に銅を混ぜるとピンクゴールドになるのですが、銅が入っていると倍音の数が全然変わってきます。さらに銀という混ぜ物を足したものがイエローゴールドになるのですが、そうするとまた倍音の数が変わってきます。お寺の鐘って銅が多いじゃないですか。銅がもしかして倍音に効く材料なのではないかということが、我々と池田さん側の話の中で出てきたりしました」(石橋さん)
このように、それぞれの貴金属がまったく異なる音の個性を持つことが明らかになりました。なお、このプロジェクトで最も印象的な音として挙げられるのは意外にも純パラジウムとピンクゴールドで、3人のメンバーの感想がほぼ一致したといいます。一方、最も「主役」に据えたかった純金は当初の期待とは異なる音でしたが、低音まできっちり揃えて楽曲にしてみると「壮大な音」として際立つことが分かり、アルバムの核になっています。
サンプリングの技術的な舞台裏
録音の機材について、池田さんからメールで詳しい情報を伺いました。レコーダーにはTASCAMの「DR-07X」を使用。マイクは、元デラ・エンジニアの木坂忠明氏が設計したオリジナルのコンデンサーマイクを池田さん自身がリビルドしたものです。アーム部分がフレキシブルに可動し、さまざまな環境音の録音に対応できるといいます。さらに、プレートごとに鳴る場所が散らばるため、SONYの「PCM-D10」を内蔵マイクで重ねて録音し補完するという構成も採られました。
サンプラーはStudioOneの「Sample One」を使用。今回は1ベロシティでの収録です。収録した素材の倍音の多さに池田さんは苦労したといいます。「楽器用にチューンしたプレートではないので、倍音の方が目立つ傾向がありました。実際に叩く時、編集時も含めて中低域の倍音には苦労しました」と振り返っています。
下の2枚の画像は、池田さんが提供してくれたスペクトログラムです。1枚目がピンクゴールド、2枚目が純金のものです。
池田さんはこのスペクトログラムについて「一番下の音が狙ったルート音です。ゴールドは倍音が多く細かく、聴感上もルート音をかき消すようなサウンドでした。シルバーは落ち着いていて楽器に適していると感じました」とコメントしています。
この倍音の多さは、可聴域を超えた帯域にまで及んでいることも判明しています。石橋さんは「鼓膜振動だけで聴こえる外側の音でも特徴的な音が出ているということは、もしかしたら人に対する音の効果は、カットしてしまった聴こえる音ではないところにもあるのではないかという会話が出てきました」と話しており、未来研究所の「人のコンディション計測」プロジェクトとの連携も将来の研究テーマとして視野に入っています。
楽曲制作——2024年11月の録音から2025年6月のリリースまで
録音されたサンプリング素材は、池田さんによってStudio OneのSample Oneに組み込まれ、音源として整備されました。その後、編曲をMitsuhiroさんに委託。それぞれの貴金属の個性に合わせた楽曲を選んだといいます。
「銀はシルバームーンというだけあって、一発で決まりました。ほかの貴金属については、たとえば金に合う曲風、イメージはこういう世界だね……など、録った音の金属種に合う曲を選んだという話を(池田さんから)聞きました」(石橋さん)
完成した『プレシャスメタル・オーケストラ ~貴金属の音紀行 Vol.1』の収録曲は以下の4曲です。
2.ピアノ・ソナタ 第14番「月光」 ~ シルバー・サウンド(ベートーヴェン)
3.アヴェ・マリア ~ シルバーカッパー・サウンド(シューベルト)
4.ジュピターの主題(組曲『惑星』より) ~ アンサンブル・サウンド(ホルスト)
1〜3は純金・純銀・シルバーカッパーそれぞれの単独の音色が楽しめるシングル・トラック、4は純金・純銀・シルバーカッパー・イエローゴールド・ピンクゴールドを組み合わせたアンサンブル・トラックです。
2024年11月の録音から2025年6月13日のリリースまで、約7ヶ月というスピードで制作が進みました。「社内史上初のスピードで売上が出たプロジェクトだ」と伊東さんは話しています。Mitsuhiroさん自身がすぐに制作に没頭してくれたことが大きかったといいます。
ANA・JALの機内オーディオに採用
リリース後、この『プレシャスメタル・オーケストラ ~貴金属の音紀行 Vol.1』は、ANA・JALの国際線機内オーディオとして採用されたことがあります(現在は視聴できません)。そのほかラジオでオンエアされたり、各施設や結婚式場からの問い合わせも来ているといいます。
「このプロジェクト自体が未来研究所のプロモーションにつながっているので、その点からも本当に大成功のプロジェクトだと思っています」(伊東さん)
石橋さんはこのプロジェクトの意義をこう総括します。
「貴金属の製品が外に出ていく時、やはり材料なので素材としての価値でしか出ていかない。しかし、こういう形で価値が音に変換されて、それに対して評価してくれる——この一巡を、当初からずっと考えてきた未来研究所のコンセプトを最速で回せたプロジェクトですので、この意味合いはとても大事にしたいと思っています」(石橋さん)
今後の展開
Vol.2・Vol.3もリリースされ。貴金属の音のプロジェクトとしては、打撃による「打撃音」に続き、フルートの管に空気を流した際の「気柱振動」の録音も検討されています。富岡工場がフルートの管材製造という実績を持つだけに、「工場の製品に対してどのような音になるかという、これまでにできなかった付加価値を出しつつ、楽曲提供も行うという、両方を実現した形になるので、より弊社の社員を巻き込むこともできる」と石橋さんは語ります。
また、未来研究所が別途進めている「人のコンディション計測」プロジェクトとの連携も視野に入ってきました。「この音を聴いた時の人の反応はどこに出るの?この音を聴いたら人はどういう反応をするの? そういうところにも入っていきたい」と伊東さんは話しており、貴金属の音と人体への影響を科学的に解析する研究へと発展していく可能性があります。
株式会社デラ 制作プロデューサー 池田邦人さんのコメント
初回の一連の収録で、いちばん苦労したのは「ゴールド」でした。プリプロ用にテスト加工してくれたゴールドプレートを叩いてみたら、驚くほど鳴らなくて。響いたのは「ちょん……」という、なんとも頼りない音でした。「純金」という荘厳なイメージとのギャップがあまりにも大きくて、収録に立ち会っていた全員が笑いをこらえ、悶えました。とはいえ主役を外すわけにはいかないので、皆で検討してプレートの再設計を行いました。
僕自身、デラで音楽制作の指揮と並行して多くの自然音を録音してきましたが、それは音を通して地球の歴史をたどるような旅でもありました。今回「貴金属の音紀行」と名付けたのも、人類と金属の歩みを音でイメージできるのではと思ったからです。時代に思いを馳せながら、美しい音色を楽しんでいただけたら嬉しいです。
リラクセーション・ミュージック作曲家 Mitsuhiroさんのコメント
録音された貴金属の音は、株式会社デラの池田さんからDAWのStudioOneに付属のSample One(※)を使って最適に調整されたデータを提供していただきました。そのままStudioOneにMIDI入力して制作するのが最もシンプルですが、1tick単位での細かなノート調整がプレシャスメタル・オーケストラでは重要だと思い、入力にはMIDI編集機能が充実しているDigital Performerを使用しました。
Digital Performerには「インターアプリケーションMIDI」という機能があり、MIDI情報を内部的に他のDAWへ送ることが可能です。それを使えば、リアルタイムでDigital PerformerからStudio OneのSample Oneを演奏させることができます。
エフェクターはStudio Oneのコンソールを使って主にUAD Neve 1073とWAVES Renaissance Compressorを使っていますが、リバーブに関しては得たい質感から外部エフェクター(Lexicon PCM 90)を使いました。
※ 制作当時のもの。現在はStudio Proに標準装備
『プレシャスメタル・オーケストラ ~貴金属の音紀行 』のVol.1、Vol.2、Vol.3は現在、各種音楽配信サービスで配信中です。「純金の音ってどんな音だろう?」という純粋な好奇心から始まったこのプロジェクト、「貴金属の音紀行」はさらに続いていきます。
【関連情報】
TANAKA未来研究所サイト
















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