カセットテープ全盛時代、テープデッキに搭載されていたDolby BとかDolby Cなどのノイズリダクション。本来はテープノイズを低減するための技術でしたが、録音時にONにして再生時にOFFにすると高域が強調された「シャキシャキとした勢いのある音」が得られるという裏ワザを覚えている方も多いのではないでしょうか。実はこの「誤った使い方」は、プロのエンジニアも秘密兵器として活用していました。特にプロスタジオで使われていたDolby A-Typeは、ノイズリダクションの枠を超えた創造的なサウンドデザインツールとして使われてきたのです。
日本時間の5月21日未明、米Universal Audioが発表・発売した新プラグイン「A-Type Multiband Dynamic Enhancer」は、そんなプロの秘密兵器を現代のDAW環境で再現し、さらに発展させた多機能なエンハンサーです。Apollo/UAD-2のDSPプラットフォーム向けにリリースされたこの製品は、録音素材にエキサイティングな高域を加えたり、過度に圧縮されたトラックに新しい命を吹き込んだり、80年代風のゲートリバーブエフェクトを作り出したりと、さまざまな音楽制作シーンで活躍します。ノイズリダクションという実用的な目的から生まれ、クリエイティブな用途へと進化したDolby A-Typeの歴史とともに、この新しいプラグインの魅力を探っていきましょう。

Universal AudioのA-Type Multiband Dynamic Enhancer
Dolby A-Typeの歴史:ノイズリダクションからクリエイティブツールへ
Ray Dolbyとノイズリダクションの誕生
現在はDolby Atmosなどのサラウンド技術で知られるDolby社ですが、その起源は1965年にRay Dolbyによって設立されたDolby Laboratoriesにあります。Ray Dolbyはテープレコーダーのノイズ問題を解決するために「Dolby NR(ノイズリダクション)」を開発しました。
最初に商業的に成功したのは専門的なスタジオ向けのDolby A-Typeで、その後、一般コンシューマー向けにDolby A-Typeを簡略化したDolby B-Typeが登場、そしてより高性能なDolby C-Typeへと進化していきました。DTMステーションの読者のみなさんも、とくに50代以上の方であれば、テープデッキにあったDolby NRのスイッチを覚えているのではないでしょうか?

Dolby B,C,Sにも対応したカセットデッキ。写真:JPRoche, “Magnétocassette-130311-0003.jpg”, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons
いくつかの種類のDolby NRがある中で、プロ用のDolby A-Typeは4バンドのコンパンダー(コンプレッサーとエキスパンダーの組み合わせ)として動作し、録音時(エンコード)には高周波数帯域を強調し、再生時(デコード)には同じ周波数帯域を減衰させることでテープノイズを低減していました。
プロの「秘密の武器」となったDolby A-Type
そのDolby A-Typeのために誕生した業務用機材がDolby 361。興味深いことに、多くのプロデューサーやエンジニアはDolby 361を本来の目的ではなく、創造的なツールとして使い始めました。たとえば、ジョン・レノンは自分の声にDolby A-Typeのエンコード処理だけを施し、デコードせずに使用することで特徴的なボーカルサウンドを作り出しています。この手法は「ジョン・レノン・トリック」や「ストレッチ」とも呼ばれています。

Dolby A-Typeに対応したモジュール、Dolby 361。写真:JPRoche, “Magnétocassette-130311-0003.jpg”, CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons
また、多くのスタジオではDolby A-Typeのカートリッジを物理的に改造し、特定のバンドだけを処理する「エアー・モード」と呼ばれる効果を生み出したといわれています。これは特にボーカルに空気感を出すという意味で効果的だったのです。
Sound City Studiosとの関わり
こうした創造的な使用法が再評価されるきっかけとなったのが、Universal Audioの協力者James Santiagoが行っていたSound City Studiosのテープアーカイブ作業でした。Sound Cityには膨大な量のDolby A-Typeエンコードされたテープが保存されており、それらを適切にデジタル化するためには、老朽化したDolby A-Typeハードウェアを使い続ける必要がありました。
Santiagoは維持管理の困難なDolby A-Typeハードウェアの代わりとなる信頼性の高いデコードソリューションを求めてUniversal Audioに協力を依頼。それがきっかけとなり、Dolby A-Typeの回路を徹底的に研究し、これまでにない改造版も含めた包括的なエミュレーションの開発へとつながりました。
Universal Audio A-Type Multiband Dynamic Enhancerの特徴
今回登場したUniversal AudioのプラグインであるA-Type Multiband Dynamic Enhancerは、オリジナルのDolby A-Type回路の忠実な再現だけでなく、これまでのハードウェア改造の歴史や独自の拡張機能を加えた、多機能なエンハンサープラグインとなっているのが大きなポイント。またこのプラグインは、Apollo/UAD-2のDSPプラットフォーム専用として登場したもの。したがって、ApolloやUAD-2 Satelliteを持っている人を対象とした製品となっています。現時点では、CPUだけで動作するネイティブ版はリリースされていないので、今後の登場を期待したいところですが、この機会にApolloを1台購入してみる、というのもありかもしれません。
5つのモード:多彩なサウンドデザインツール
A-Type Multiband Dynamic Enhancerには、それぞれ特徴的な5つのモードが搭載されています:
2. Expand(エキスパンド):A-Typeプロセスの「デコード」ステップを利用したモード。ノイズ低減効果と共に、過剰に処理されたオーディオにダイナミクスを復元します。A-Typeエンコードされたテープのデジタル変換に最適です。
3. Air(エアー):下位バンドを無効にして高域シェルフのみを使用する改造版。ボーカルに特に効果的な、独特の「エアリー」なサウンドを生み出します。Sound City Studios、A301回路、シンプル回路という3種類の有名な改造バージョンがプリセットとして用意されています。
4. Crush(クラッシュ):UAの独自開発によるA-Typeの単一バンド改造版。ドラムルームマイクに使うと「爆発的かつ美しいピローイーな音」を作り出します。
5. Gated(ゲーテッド):Crushエフェクトの前に簡単なシグナルゲートを追加したモード。80年代初期に流行したドラマチックなゲートルームエフェクトに最適です。
拡張機能:より深い調整のためのサーキットモッド
このA-Type Multiband Dynamic Enhancerには、オリジナルのハードウェアにはなかった拡張機能も豊富に搭載されています。具体的には以下のような機能です。
2.アタックニー、リリース、レシオ:ダイナミクス処理の特性をきめ細かく調整できます。
3.サイドチェーンフィルター:低域のポンピングを防ぐ「Low Cut」と、周波数範囲全体にわたるダイナミックレスポンスのシフトを可能にする「Tilt」を搭載。
4.SC Link:ステレオリンクまたはデュアルモノ操作を選択可能。
5.ヘッドルーム調整:プロセッサーの使用可能なヘッドルーム量を調整して、処理の強さをコントロール。
アーティストプリセットも多数収録
Billy Bush、Carl Glanville、Chuck Zwicky、John Paterno、Richard Chycki、Will Shanksなど、A-Typeハードウェアを使用してきた著名なアーティストによるプリセットも多数収録されています。「A-Type」プレフィックスの付いたプリセットは、オリジナルハードウェア回路または有名な改造版に基づく正確な設定を提供します。

A-Type Multiband Dynamic Enhancerにはさまざまなプリセットが用意されている
実用的な使い方:さまざまなミックスシーンでの活用法
A-Type Multiband Dynamic Enhancerは、さまざまな音楽制作シーンで活用できる多機能ツールです。以下に、いくつかの実用的な使い方を紹介してみましょう。
ボーカルの強化
ボーカルトラックに「Air」モードを適用すると、自然な高域強調が得られます。歪みを生じることなく、ボーカルに空気感とプレゼンスを加えられます。Mixコントロールを使って効果の強さを調整するとよいでしょう。
1. Airモードを選択
2. Amountノブを適度な位置に設定
3. Mixノブで効果の強さを調整(12%〜22%が目安)
4. 必要に応じてSC Filterを「Low Cut」に設定し、低域のポンピングを防止
ドラムルームマイクの処理
ドラムのルームマイクに「Crush」モードを使用すると、爆発的でありながらも美しい「ピローイー」なサウンドが得られます。80年代風のゲートリバーブが欲しい場合は「Gated」モードが最適です。
1. Crushモードを選択
2. Amountノブを「max」に近い位置に設定
3. サーキットモッドを開いて、Kneeを「Hard」側に、Releaseを好みに応じて調整
4. Mixノブで効果の強さを調整
1. Gatedモードを選択
2. Amountノブでゲートのスレッショルドを設定
3. サーキットモッドを開いて、Releaseでゲートのリリースタイムを調整
4. Mixを0%に設定すると、圧縮なしの純粋なゲート効果が得られます
フラットなミックスに輪郭を与える
全体的に平坦に聞こえるミックスに「Excite」モードを適用すると、各要素に輪郭とディテールが加わります。
1. Exciteモードを選択
2. Amountノブを控えめに設定
3. サーキットモッドを開いて、各バンドのゲインを調整(ミックスに足りない周波数帯域を強調)
4. Mixノブで効果の強さを調整
過度に圧縮されたトラックの復活
過度に圧縮されたトラックやステムに「Expand」モードを適用すると、失われたダイナミクスと生命感を取り戻すことができます。
1. Expandモードを選択
2. Amountノブを中程度に設定
3. サーキットモッドを開いて、必要に応じてKneeとReleaseを調整
4. Mixノブを100%に設定(A-Typeハードウェアと同様の動作)
アナログテープ変換の最適化
A-Typeエンコードされたマスターテープをデジタル化する場合は、「Expand」モードと専用プリセットを使用すると最適な結果が得られます。
1. A-Type TAPE TRANSFER DECODEプリセットをロード
2. メーターをIN(入力レベル)に設定
3. テープのトーンがメーターで0dBを示すように調整
4. Expandモードが自動的に選択され、Mixが100%に設定されます
技術的な仕組み:A-Typeの動作原理
A-Type Multiband Dynamic Enhancerの理解をより深めるために、その技術的な動作原理を解説しましょう。

A-Type Multiband Dynamic Enhancerの信号の流れ
マルチバンドコンパンダー処理
オリジナルのA-Typeハードウェアは、マルチバンドコンパンダー(コンプレッサーとエキスパンダーの組み合わせ)として動作します。入力信号は4つのバンドに分割され(高域バンドはオーバーラップ)、各バンドが独立して処理されます。
「エンコード」(Exciteモード)では、各バンドに素材のレベルに反比例する圧縮が適用されます。つまり、静かな音はより明るくなり、大きな音はほとんど変化しません。この効果により、新たな倍音や歪みを生成することなく、エキサイトメントとクリアさが加わります。
「デコード」(Expandモード)では、圧縮された信号がダウンワードエキスパンダーを通過し、ノイズ低減効果と共にダイナミクスが復元されます。
クロスオーバーとゲイン構造
プラグインのサーキットモッドセクションで公開されているクロスオーバーディスプレイは、A-Typeの周波数分割構造を視覚的に表しています。
2.Low Mid:低中域を担当
3.High Mid:高中域を担当(800Hz〜5kHz)
4.High:高域を担当(6kHz〜14kHz)
各バンドのゲインは、Exciteモードでは出力に合計され、Expandモードではフィードバックループを通じて入力から減算されます。
また特殊モードとは具体的にどんなことをしているのか技術的に見てみると以下のようになっています。
2.Crush:A-Type回路を単一バンドの圧縮器として改造したUAの独自開発モード。
3.Gated:Crush圧縮器の前にシンプルなゲートを配置。Amountノブでゲートと圧縮器の両方のスレッショルドを制御し、Mixノブで圧縮のドライ/ウェットブレンドを設定(ゲーティング量には影響しません)。
ノイズリダクションからクリエイティブツールへの旅
Universal AudioのA-Type Multiband Dynamic Enhancerは、Dolby A-Typeノイズリダクション回路の歴史と創造的な誤用の伝統を受け継ぎ、現代のDAW環境で活用できる多機能ツールへと進化させた製品です。Apollo/UAD-2のDSPプラットフォーム向けにリリースされることで、オリジナルハードウェアの特性を忠実に再現しつつ、現代的な拡張性も備えています。
もともとテープノイズを低減するという実用的な目的で開発されたDolby A-Typeが、プロデューサーやエンジニアの創造性によってサウンドデザインツールとして再発見され、さらに進化を遂げてきた歴史は非常に興味深いものです。
かつてカセットテープデッキでDolby NRをわざと誤った使い方をして、いい感じの音にしていたという人も、プロフェッショナルな現場でそれと同様の手法が秘密兵器として活用されていたことを知れば、新たな発見がありそうですよね。
A-Type Multiband Dynamic Enhancerは、単なるノスタルジーを超えた実用的なツールとして、現代の音楽制作にエキサイティングな可能性をもたらしてくれます。プロ仕様のサウンドの秘密を解き明かし、自分の制作に取り入れてみてはいかがでしょうか。
なお、A-Type Multiband Dynamic EnhancerはUAD Customの対象商品となっています。したがって、2つ以上のUAD-2プラグインを同時に購入するのであれば、より手ごろに入手することが可能なので、検討してみてもよさそうです。
【関連情報】
A-Type Multiband Dynamic Enhancer製品情報(Universal Audio)
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