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テルミンより前?いや同時代だ!日本の電子楽器100年史をコルグ・三枝文夫さんがひも解く【ADC Japan 2026レポート⑤】

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ADC Japan 2026(6月1日〜3日、秋葉原にて開催)のレポート第5弾です。今回取り上げるのは、株式会社コルグの監査役である三枝文夫さんによる講演「日本の電子楽器元年」。現在のDTMの世界、つまり最新のデジタルハードウェアとDAWはじめとするソフトウェアにおける音楽制作の世界とは、大きく異なる世界の話にはなりますが、貴重な歴史的資料、記録として残しておくべき内容だと感じたので、しっかりレポートしたいと思います。

ご存じの方も多いと思いますが、三枝さんといえば、miniKORG700やMS-20、PS-3300といった名機を手掛けてきたコルグの伝説的なエンジニア。DTMステーションにおいても、これまで何度も登場いただいたことがありました。その三枝さん本人による「日本の電子楽器の始まり」を辿る講演は、おそらくネットを探しても出てこない貴重な話ばかりです。

コルグの三枝文夫さんから、日本の電子楽器の原点を振り返る貴重が講演が行われた

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何をもって「元年」とするか

講演冒頭、三枝さんはこう切り出しました。

「日本の電子楽器は今、世界を席巻しているといってもいい状況ですが、もちろん昔からそうだったわけではありません」

ADC Japanで講演された株式会社コルグ 監査役の三枝文夫さん

現在に至るまでの間には、70年ほど前からじわじわと積み上げられてきた歴史があります。ただ、テルハーモニウムやトラウトニウム、テルミン、オンド・マルトノ、リッケンバッカーのフライングパン、ハモンドオルガンなど、1920〜30年代に海外で生まれた電子楽器の情報はよく知られている一方で、同じ時代の日本の電子楽器についてはほとんど語られてきませんでした。

Telharmonium、Trautonium、Theremin、Hammond Organ、Rickenbacker Frying Pan、Ondes Martenotの紹介

「今日はあえて、日本にもその頃、電子楽器があったんだよという話をしたいと思います」

今年2026年は、大正15年(昭和元年)にあたる1926年に東芝が電子楽器を発表してからちょうど100年。三枝さんはこの節目の年に、1920〜30年代の日本の電子楽器史をテーマに選んだといいます。

1920年から2060年までの年表

三枝文夫さん — 1940年生まれ、ジョン・レノンと同い年

本題に入る前に、三枝さん自身の経歴が語られました。

「私が1940年生まれということは戦前なんですよ。自慢はビートルズのジョン・レノンさんと同い年ということくらいですね」

1953年 — レバー操作式のギター型電子楽器を製作
1964年 — テイショード(コンボオルガン)
1967年 — サイケデリック・マシン、ユニバイブなどのエフェクト機器
1970年 — シンセサイザー・プロトタイプ1
1973年 — シンセサイザー miniKORG-700、800DV、ポリフォニック・アンサンブル・シリーズ
1978年 — ポリフォニックシンセサイザー PS-3300、MS-20、ボコーダーVC-10
2011年 — Nutube(新世代の真空管技術)とその関連製品
2024年 — ハーモニック・ディストーション HD-1(エフェクトペダル)

中学2年生だった1953年、送別会の出し物を頼まれた三枝少年が作ったのが、ギター型の自作電子楽器でした。

ギター型電子楽器の構造図(トリガースイッチ、ラジオ受信機、トーンジェネレーター送信機、アンテナ)

「トレモロアームのようなものを回転させて音を出す仕組みで、ラジオを分解して作った発信機とアンテナを使い、中波放送に乗せて音を飛ばしていました。なぜラジオを介して無線で送ったのか不思議に思うかもしれませんが、理由は単純で、アンプがなかったからです」

その後三枝さんはギターアンプメーカーに入社しますが、当時はまだハワイアンギター用の製品が中心だったといいます。

1965年、エレキギター禁止令とTEISCOの苦難

三枝さんが「忘れもしません」と語るのが、1965年10月19日の朝日新聞に掲載された記事です。

1965年10月19日の朝刊記事「追放申合せへ エレキギター」

「エレキギターは青少年を不良にするからダメだ、という記事が突然載ったんです。それでほとんどの日本のメーカーが倒産しました。私の勤めていた会社(TEISCO)も倒産して、路頭に迷いました」

飯を食うために作った楽器が、エフェクター「ユニバイブ」でした。

UNIVIBE(1968)とジミ・ヘンドリックスのウッドストック(1969)

「これがたまたまジミ・ヘンドリックスの目に触れたんです。ウッドストック・フェスティバルでアメリカ国歌を演奏したときに使われました。実は私自身、ジミヘンが亡くなって何年か経ってからそのことを知ったんですよ」

コルグとの出会いから、名機の数々へ

その後、三枝さんは京王技研工業(現コルグ)の社長と偶然出会い、そこから楽器づくりの道が本格的に始まります。

Synthesizer Prototype 1 (1970)

「当時、シンセサイザーという言葉を知らなかったので、『新しい電子オルガン』と名付けました。2段鍵盤を持ち、モノフォニック音源とポリフォニック音源のオルガンも兼ねた楽器です。電圧制御発振器とノンリニア合成方式も併用しながら、金管楽器等の音を模した単音楽器——今でいうシンセサイザーですね。1970年に科学技術館で開催された第19回オーディオフェアで発表し、レコードにもなりました」

mini KORG 700 (1973)、miniKORG 800DV (1975)

Polyphonic Synthesizer PS-3300 (1977)、Monophonic Synthesizer MS-20 (1978)

PS-3300は2025年に、MS-20は2013年と2020年に復刻されたことにも触れつつ、話は最新の取り組みであるNutube(新世代の真空管技術)へ。

NuTube

ここまでが三枝さん自身の歩みで、ここから本題の「日本の電子楽器元年」パートへと移っていきます。

1907年、東京朝日新聞が伝えたテルハーモニウム

「このテルハーモニウムはアメリカ製の楽器の話ですが、これ以降は全部、日本の技術者が考えた楽器の話です。あまり知られていませんが、日本のメディアで電気楽器というニュースが初めて知られたのは、1907年(明治40年)2月の東京朝日新聞ではないかと思われます」

「愉快なる発明(電話より想起せる新楽器)」明治40年2月4日 東京朝日新聞

アメリカに渡った特派員がテルハーモニウムを見聞きし、それを紹介したのがきっかけだったのではないか、と三枝さんは推測します。

「音源はトーンジェネレーター。ドレミファソラシの周波数で音を出す“発電所”というイメージで、これは私が描いた絵なんですが、ミュージックプラントで作った音楽を電話回線でホテルやレストランに届ける——今でいうサブスクのビジネスをしようとした人がいたわけです」

Music Plant → Telephone network → Hotel/Restaurantの図解、Telharmonium写真

「現実には信号が他の電話回線に漏れてしまうなど色々な問題があったようですが、かなりすごい試みですよね。これを日本の新聞が紹介したというのが、日本が電子楽器と出会った最初の瞬間ではないかと思います」

1926年、東芝の電子楽器 — 「電子楽器元年」

そして舞台は今から100年前、大阪の電気大博覧会へ。

東芝の電気楽器 電気大博覧会(大正15年・昭和元年)

「その頃の出品物は主に照明や電球、ラジオだったのではないかと思いますが、その中で当時の芝浦電気(現・東芝)が電子楽器を作りました。鍵盤やコイル真空管がみえます。真空管には『サイモトロン』と書かれています。おそらく芝浦電気さんが命名したのでしょう」

構造としては、鍵盤でコントロールする発振器を「ジュノラ」という商品名のラジオにつなげただけの、いたってシンプルな楽器だったといいます。それでも1926年の時点でこうした楽器が博覧会に展示されていたことは、大きな意味を持つと三枝さんは語ります。

1931年(昭和6年)、電子楽器にとって「大変な年」

三枝さんいわく、1931年は日本の電子楽器史にとって特別な一年だったといいます。

本居長世が弾いた、アマチュア無線家のオルガン

雑誌『無線と実験』(現在のMJ無線と実験の前身)の電気楽器特集号に登場するのが、無線の専門家が自作したオルガンです。この楽器が実際に「使いもの」になるかを確かめるため依頼されたのが、『七つの子』『赤い靴』などで知られる作曲家・本居長世でした。

Radio Experimenter and Television (1931)、本居長世

「本居さんのお嬢さんが3人いて、みんな声楽家になったのですが、一番下の末っ子さんが長生きされていて、私は実際にお会いしたことがあるんです。東京藝大の奏楽堂で歌われたことがあり、そのとき『お父さんはこの電子楽器のことを話していましたか』と聞いたら、『本当だったんですね』とおっしゃっていました」

電気三味線とリッケンバッカー・フライングパン、同じ年に

リッケンバッカーのフライングパン(エレキギターの元祖)が発表されたのと同じ1931年、日本では電気三味線の演奏会が実際に開かれていました。国会議事堂近くの華族会館で、演奏者は4世杵屋佐吉。この構造図は、現在の7世杵屋佐吉氏から直接提供を受けたものだそうです。

4世杵屋佐吉使用 電気三味線構造図、Rickenbacker Frying Pan

「エレキギターと同じように、絹糸には反応しないので金属の弦を使い、それに反応するコイルを組み込んでいます」

大阪朝日(1931年)「世界的新楽器『威絃』の発明

新聞では「世界的新楽器、『咸絃』の発明」と紹介されています。「咸」は「ことごとく」を、「絃」は三味線の弦を意味し、三味線の音の600倍——600人が同時に弾いているのに匹敵する音量が出ると謳われていたそうです。

面白いのは、発明者と演奏者とで評価が正反対だったという点です。発明者の石田一治氏は「十町(約1km)四方に聞こえるので屋外の演奏にも適している」と胸を張った一方、演奏を担当した杵屋佐吉家元は「これは三味線ではない。三味線の改造というよりも、全く新しい楽器である」とコメントしています。

「エレキギターでいうダウンチューニングのように、三味線にも“水調子”という弦を緩める奏法があるそうですが、音がほとんど聴こえなくなる。この楽器では水調子でも、音がしっかり出るので、違う表現が可能になるかもしれない、と言っているわけです。発明者の思いと演奏者が感じることは、今も昔もまったく違う。私自身も経験があります」

NHKが放送したテルミン、そして山本勇氏による改良

同じ1931年、東芝が輸入したRCA製のテルミンがNHK(JOAK)で放送されました。演奏したのは歌手だったそうで、その理由を三枝さんはこう説明します。

The RCA Theremin imported by Toshiba was broadcast on JOAK (1931)

「テルミンで音程を正確に掴むのは非常に難しいんです。ただ歌手であれば、自分自身の声の高さの感覚があるので演奏できるのではないか、ということでデモ演奏をしたようです」

テルミンの改良(山本勇)(1932)

さらに翌1932年には、無線工学の専門家・山本勇氏がテルミンの改良に取り組んでいます。箱の中にテルミンのアンテナを収め、鍵盤の絵の上に手をかざす方式です。左右で金属板とアンテナの間の静電容量(キャパシタンス)が変わることで発振周波数が変化し、音程が変わる仕組み。

「テルミンは本来ビート(うなり)で音階を作る楽器なので、指を動かす場所を目印だけでなく物理的な手がかりとして作れれば、演奏感覚は全然違ったはずです。山本勇さんは後に電気通信大学の学長になられた方で、私は実はお話を伺ったことがあるんですが、当時これを知っていればもっと詳しく聞けたのに、と今になって思います」

横川電機、光でPCMを先取りした鍵盤楽器

計測器メーカーとして知られる横川電機が同じ年に開発したのが、波形をそのまま光学的に読み取る仕組みの鍵盤楽器です。回転するドラムに波形を刻み、光を当てて光電管で受光する——いわば今日のPCM方式の先取りのような発想だったといいます。

波形読み取り方式鍵盤楽器 横川電機(1931)

「鍵盤を押すとシャッターが開いて光が入り、ゆっくり押さえると光が強くなって音も大きくなる。つまりアタックやリリースを制御できる。MIDI 2.0で『ポリフォニック・エクスプレッション』という言葉が話題になっていますが、これと同じことを100年前にやっていたわけです」

1934年、ヤマハのマグナオルガン — 定倍方式という発想

日本楽器(現・ヤマハ)が発表したマグナオルガンにも、アフタータッチのような表現機能が備わっていたといいます。手がけたのは山下氏という人物で、ドイツ留学の影響も見られるそうです。

Magna Organ YAMAHA (1934)

一般的な電子楽器は、高い音の周波数を半分に分周して低い音を作る「ディバイダー」方式を使うのが普通ですが、この楽器はその逆で、低い音を基準にオクターブ上やそれ以上の高い音を創り出す「逓倍」方式を採用していたのが特徴だといいます。

Doubler → Doubler → Doubler、Tripler → Triplerの図解

「2倍音(Doubler)や3倍音(Tripler)で音を作ればどうか、という発想です。「ド」の2倍音はオクターブ上の「ド」、3倍音は12度上の「ソ」になる、という具合ですね」

余談:衣佐美送信所と、超長波の秘話

なぜこの「逓倍」の話を持ち出したのか、三枝さん自身も色々調べたそうですが、そこで行き着いたのが名古屋近郊にある衣佐美(よさみ)超長波送信所の存在でした。人間の耳に聞こえる5,814Hzの発振器の波形を3倍(トリプラー)することで17,442Hzとし、それにアンテナを繋ぎ、電波として発信したという長波の技術です。

衣佐美(よさみ)超長波送信所(1929)、Frequency Generator、Tripler

「なぜ3倍かというと、周波数を一気に何十kHzも上げる装置を作るのは大変だから。なぜ長波を使うかというと、短波は近距離で減衰してしまうのに対し、長波はヨーロッパまで届き、しかも水中でも電波が通じるからです。有名な『新高山登レ』の暗号信号は、この衣佐美送信所から潜水艦に向けて発信されたという話もあります」

音楽家・評論家たちは電子楽器をどう見ていたか

技術者たちが次々と電子楽器を生み出す一方で、当時の音楽界はそれをどう受け止めていたのでしょうか。三枝さんは当時の評論をいくつか紹介しました。

「機械音楽にはじめて朝が訪れた」読売新聞(1931)堀内敬三

慶應義塾大学の応援歌『若き血』の作詞、作曲でも知られる堀内敬三氏(マサチューセッツ工科大学出身の機械工学の専門家でもあった)は、読売新聞にこう寄稿しています。

「機械音楽にはじめて朝が訪れた。演奏者は『頭』さえあれば『腕』は機械で補える」

「これからは演奏者の器用さや超絶技巧といったものは必要なくなる、頭さえあれば音楽はできるんだ、という主張です。今のコンピューターミュージックのようなものをすでに予感していたのではないかと思うくらい、鋭い指摘です」

近衛秀麿、菅原明朗著『楽器図鑑』(1937)

指揮者としても知られる近衛秀麿氏は、著書『楽器図鑑』(1937年)の中でこう述べています。

「今後の楽器は電波による楽器が中心となる」

その理由として、人間のエネルギーと運動範囲には限界があり音域や音量にも制約があること、また楽器ごとに奏法がまったく異なり複数の楽器を極めるのは難しいことを挙げ、電気楽器はそうした制約を解決しうる、と論じているといいます。

「アコースティック楽器では常識だったことが、電気によってひっくり返るだろう、と言っているわけです。改めて言われるとその通りなのですが、電子楽器が当たり前になった今、忘れがちなことでもあります」

1940年、コルグ創業者の一人・長内端氏によるシンセサイザー的機材

戦前、1940年に日比谷公会堂で開かれたのが、長内端氏によるアコーディオン独奏会でした。長内端氏は、コルグの創業者の一人です。

「長内端 アコーディオン独奏會」(1940)

このとき使われた「特殊電気アコーディオン」を製作したのが、計測器メーカーの社長だった茨木氏という人物です。トーンジェネレーターだけでなく、エンベロープジェネレーターまで備えた本格的な音源で、まさに——三枝さんいわく——「Synthesizer!!!」と呼びたくなる代物だったといいます。

Mr.Ibaraki and his Electronic Accordion (1940)

「面白いのは、当時は『アタック』『リリース』『サステイン』という言葉が日本になかったことです。だから『音の出始めの調整』『音の出終わりの調整』『音の出終わりを引き伸ばす』という表現で説明されています」

Tone Generator + Envelope Generator

この演奏会に使った楽器の件で、茨木氏の御親族に尋ねたところ、やはり茨木氏は長内端さんをよく知っていたとのことでした。

「このことを長内は生前誰にも話しませんでした。コルグの創業者、加藤も知らなかったと思います。私は一緒に仕事をしたことがあるのですが、無口な方で自分のことをほとんど話さなかった。こんな経歴があったことも、周りの誰も知らなかったんです。私自身、たまたまオークションでこの日比谷公会堂での演奏会のチラシを見つけて、それで初めて知りました。今から50年前に亡くなられていて、もっと話を聞いておけばよかったと思っています」

Science Museum, Tokyo(1975)

この茨木氏のアコーディオンから35年後の1975年には、長内端さんは科学博物館で、シンセサイザーを60台並べ、ポリフォニック化してアコーディオンに接続する実験コンサートを開いたとのことです。

日本音響学会誌「電気楽器に就いて」米山輝男 (1938)

1938年の日本音響学会誌に掲載された米山輝男氏の論考「電気楽器に就いて」も紹介されました。

「電気楽器は既存の楽器の代用品ではなく、電気楽器のために新しく作曲したものでなければ満足な結果は得られない」

「これは当時の記事に共通する基本的な論調でもあります。普通のピアノ曲などの“代わり”として使うのはつまらない、という指摘で、今聞いてもかなり耳が痛いですね」

戦後 — 自作の熱意と、TEISCOの「魚拓」エピソード

戦争が終わると、アマチュアによる自作の記事も雑誌に登場するようになります。三枝さんが紹介したのは、電気マンドリンの自作方法を解説した記事です。

Radios and Models (1947)「電気楽器の作り方(電気マンドリンの作り方)」

「金切鋸の刃を重ねて棒状に削り、それに磁石を近づけてコイルを巻き、AC100Vの家庭用電線に瞬間的に大電流を流して磁化させる——そこまでやるのか、というくらい面白い工作記事です」

そして最後に紹介されたのが、三枝さん自身がかつて在籍したTEISCO(当時はまだハワイアンギターを製造していた時代)にまつわるエピソードです。

TEISCO (1948〜1965)、「進駐軍の兵隊さんからハワイアンギターを借りて魚拓」

「私のテスコ時代の上司がしみじみと語っていたのですが、ハワイアンギターを買うお金がなかったので、進駐軍の兵隊さんからハワイアンギターを借りて、フレットの寸法を“魚拓”の要領で採ったというんです」

魚拓、Fish rubbing → Fret rubbing

釣り人が獲った魚に墨を塗って和紙に写し取るのと同じ要領で、フレットに墨を塗って寸法を測ったのだそうです。

「涙ぐましい努力ですよね。こうした試行錯誤の時代から、あっという間に日本の電子楽器は最先端を行く時代になっていきました」

「電子楽器は電子楽器のための音楽を作るためにある」

講演の締めくくりに、三枝さんはこう語りました。

「多機能 便利 安価 代替楽器?」

「私が楽器業界に入った当時も、アコースティック楽器を真似ることが一つの使命でした。ただ、何十年も経った今、当時の技術者と同じことを考えているだけでいいのか、とも思います。今日紹介した音楽家たちが最初に語っていたのは、電子楽器は電子楽器のための音楽を作るためにあるのであって、従来の楽器の代わりのためにあるのではない、ということです。それを、今の私たちは忘れがちな気がします」

「これから日本の電子楽器はどこへ行くのか」

「単にモノマネができたから偉い、ということではありません。電子楽器のために新しい音楽を作れることが一番大事なんだ、ということを繰り返し伝えたいと思います」

「When we listen with care, the voice of electronics reveals itself.」

質疑応答

講演後には、参加者からいくつか質問が寄せられました。

Q. 「電子楽器のための音楽」として、これからどんな音楽を期待しますか。

「それこそ音楽家の使命だと思っています。今日この場に音楽家の方がいらっしゃるかどうか分かりませんが、次回以降はぜひ音楽家も交えて話せると、面白い成果が出るのではないかと思いました。楽器という概念すら必要ないかもしれません。音として感じ取れるもの、良いと思えるものであれば、声でも何でも構わないと思います」

三枝さんはさらに、自身が開発に関わった楽器を演奏者が予想外の使い方をした経験について語りました。

それまで自分勝手に考えていたことが、ミュージシャンの一言にハッとさせられることが何度もありました。たとえば試作楽器の音色切り替えボタンの操作方法です。そのミュージシャンは切替ボタンを、鍵盤を弾くように演奏(操作)したのです。音色の変化をメロディーのように演奏したのです。私の全く想定していなかった使い方でした。技術者はどうしても細かいところにとらわれすぎてしまう。異分野の方を交えることで、何か新しいものが生まれるのではないかと思います」

Q. Synthesizer Prototype 1の脚が家具のような形をしていたのが印象的でした。

「あれは2段鍵盤のオルガンだと思われることが多いのですが、実際は49鍵の楽器が上下に配置されていて、しかも上下がずれていないんです。通常61鍵の場合は上下ともに揃えますが、49鍵や44鍵の場合は下鍵盤を左に1オクターブずらします。主に右手でメロディー、左手を伴奏に使うからです。この楽器はあえてずらさず、右手、左手の制約をつけずに弾いて欲しいという気持ちを込めたつもりでした」

この設計について、当時の音楽評論家から「なぜこうしたのか」と問われた際のエピソードも披露されました。

「その音楽評論家からは何故電子オルガンのように、上下鍵盤をずらさないのかと聞かれました。とっさに答えられず、『鍵盤をずらすのは嫌いです』とだけ言ってしまって、怒られてしまいました(笑)」


100年前の新聞記事や専門誌、そして三枝さん自身が半世紀以上にわたって関わってきた楽器づくりの記憶を通して語られた「日本の電子楽器元年」。単なる懐古ではなく、「電子楽器は電子楽器のための音楽を作るためにある」という三枝さんのメッセージは、シンセサイザーやDAWが当たり前の存在になった現在だからこそ、改めて噛みしめたい言葉だと感じました。

ADC Japan 2026のレポートはまだ続きます。次回もお楽しみに。

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この記事を書いた人

DTM、デジタルレコーディング、デジタルオーディオを中心に執筆するライター。インプレスのAV WatchでもDigital Audio Laboratoryを2001年より連載。「Cubase徹底操作ガイド」(リットーミュージック)、「ボーカロイド技術論」(ヤマハミュージックメディア)などの著書も多数ある。趣味は太陽光発電、2004年より自宅の電気を太陽光発電で賄うほか、現在3つの発電所を運用する発電所長でもある。

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